その穏やかな笑顔に魅了させられる。 温かく、きめ細かなコミュニケーションを繰り返すうちに、この人にすべてを委ねようと思えるようになる。
現場では無駄な動きは一切なく、崇高な雰囲気さえ漂わせる。
そして、気がつけば依頼者の想いが存分に反映された、心のこもった美しいリフォーム住宅が仕上がっている。 六四歳になる北澤伸一は、与えられた仕事を精一杯楽しんで人生を謳歌している。だが彼は、その真摯な人柄からは想像もできないような人生を送ってきた。 その笑顔に深く刻まれた数々の皺は、悲運や挫折に屈することなく、常に挑戦を繰り返して懸命に生きてきた証でもあった。
父の借財、母の死、しかし、なんとしても生きていかねばならない。北澤は美術学校を卒業後、テレビ番組の大道具や舞台セット、店舗の内装を手掛ける会社に就職し、職人たちの現場管理の仕事に就く。 しかし、舞台美術の製作の現場は、北澤にとって魅力あるものだった。営業や現場管理をしながらも、慌ただしい職人たちの中に入って手伝うようになった。現場で北澤は大方のことは難なくこなせていた。 約四年間、誰に教えて貰うわけでもなく、見よう見まねで必死で働いてきた深夜の内装業のアルバイトが、結果として職人としての修行の場となっていたのだ。 目指していたことをサポートするための仕事が、彼の生きる道を切り開いた。北澤は営業、現場管理、納品、集金、職人と実に幅広く活躍してゆく。 毎月一〇万円の貯金をして資金を貯めて、会社で働きながらも二四歳で地元の千住で居酒屋を経営した。寝る暇もなく怒濤の日々だったが、様々なお客さんを相手に円滑なコミュニケーションを学ぶ場となっていた。 そして、二八歳までに職人としてさらに多くの技術を吸収し、営業や現場管理の経験も生かして、北澤インテリアという会社を設立した。昭和のオイルショックという危機的な状況も、持ち前の決断力と行動力で乗り越えていく。 平成元年にカーペンターズと改名、これまでに品川のソニースタジオ、北澤伸一|大工江戸川のFMスタジオなども手掛けた。
北澤が様々な経験から得た最も大切なことは、「敬う」ということ。人や仕事、すべてのことに敬意を払う。
北澤は、今が最も充実していると胸を張る。そして昔を振り返り、世に出ることのなかった、想い出の曲を披露してくれた。懐かしそうに歌った。
深夜の内装業に奔走しながら、家族を救うために歌手を志し、母を亡くしても歯を食いしばって必死で生きていた、あの頃の自分に語りかけるように。
その曲は青年だった北澤伸一の涙腺に触れる、唯一の応援歌だったのかもしれない。
(職人の貌より一部抜粋 撮影/取材・文 林建次)